( ・(ェ)・)つ□三毛別事件
わずか3日のうちに一頭のクマが開拓農家12軒を襲い、6人を殺害、3人に重傷を負わせたというのは
熊害としては世界にも類をみない。
この悲惨な事件が起こった場所は、
日本海に面する北海道北部の海岸から30Kmほど内陸に入った苫前郡苫前村の三毛別の六線沢という開拓部落で、
現在は苫前町三渓という地名になっている。
事件が起こったのは大正4年12月。
まず9日午前10時頃、
太田三郎宅に一頭のクマが侵入し、在宅していた妻とその子供の2人を殺害した。
妻の遺体はクマによって山の中まで引きずられ、翌10日、部落の男たちによって変わり果てた姿で発見された。
10日夜、太田宅で2人の通夜が行われた。
ところが午後8時半頃、その席に再びクマが侵入し、遺体を奪い返しに来たのである。
多くの人々が家の中にいたため大惨事になると思われたが、
その時1人が銃を発砲し、クマは恐れて家を退散して山の中へ逃げていった。
その頃、太田家のさらに下流にあった明景安太郎宅には夫を除く明景一家と部落の上流に住む斎藤家の妻と子供が避難していた。
明景宅は開拓部落内では比較的家も広く、地理的にも安全とされていた。
ところが異様な騒ぎが上流の方から聞こえてきた。
太田家にクマが侵入し、人々が騒ぐ音である。
両家の間は500mも離れていなかった。
明景宅にいる人々は恐れおののいた。
クマの侵入があった太田家にいた人々はいったん川下の家に避難することにし、歩き始めた。
その時川下の明景家から激しい物音と絶叫が聞こえてきた。
明景家にクマが侵入したのである。明景家には女や子供たちが避難しており、極めて危険な状態にあった。
しかしこのクマによって4人が殺され、3人が重傷を負った。
午後8時50分頃のことである。
その時すでに明景家の回りを開拓部落の男たちが取り囲んでいたが、出てきたクマに対して行った発砲は不発に終わり、しとめることができなかった。
相次ぐクマの襲撃に恐れた開拓部落の人々は一刻も早く開拓地から逃れようとした。
まずは3Kmほど下流の辻橋蔵家とさらに3Km下流の三毛別分教場とに分離避難させることとなった。
あたかも平家の都落ちのように開拓部落の人々は次々と雪道を下流に向かって歩いていった。
一方クマ狩りの本部が下流の一軒の家に置かれ、討伐隊員が集まった。
ところが11日も12日もクマの姿さえ発見できず、焦りにかられていた。
13日夕刻にはクマは誰もいない開拓部落の9軒もの家に侵入し、破壊の限りを尽くした。
同日午後8時頃、クマはさらに下流に現れ、発砲したが逃げられてしまった。
14日午前、足跡と血痕を発見し追跡したところ、クマを発見した。
山本兵吉はクマに向かって発砲し見事に的中、クマをしとめた。
3日間にわたった討伐隊員の出勤は官民あわせて延べ600人、アイヌ犬10数頭にも及んだ。